AIがコードを書く速度を上げると、次に詰まるのはどこでしょうか。モデルの応答時間でも、エンジニアの入力速度でもなく、変更を保存し、テストへ渡し、レビューして統合する開発基盤そのものかもしれません。
Anthropicが開発した「Scion」は、同社の巨大なモノレポを支える社内向けバージョン管理システムです。2026年5月に1日約2,500件だった変更のマージが、9月には3万件超へ増えたことで、Gitを前提に組んだミラーやチェックアウトが大きな負荷になりました。
Scionは、誰でもGitから乗り換えられる新製品ではありません。
AIエージェントが大量の変更を生む環境では、コード生成だけでなく、履歴・作業コピー・CI・レビューの流れまで設計し直す必要がある――その実例として読むのがポイントです。
なぜGitが最初のボトルネックになったのか

Anthropicの技術解説によると、同社のメインブランチ履歴は約100GB、作業コピーは25GB超に達しました。CIだけで1日およそ2,500万回のコードチェックアウトが発生し、素朴にGitデータを取得すれば1日600PB超に相当すると試算しています。
Gitには浅いクローン、部分クローン、スパースチェックアウトがあり、大きなリポジトリを扱う工夫はすでにあります。Anthropicもそれらに加え、ピーク時には数百台の社内Gitミラーを運用していました。それでも変更の増加が速く、スナップショットが最新状態から離れ、履歴や差分を扱う運用が複雑になったと説明します。
問題は「Gitが遅い」という単純な話ではありません。完全な履歴を各クライアントが持てる分散型の強みと、常時オンラインのAIエージェントが必要なファイルだけを何度も読む働き方が、かみ合わなくなったのです。
Scionは「常につながる」前提で何を変えた?

Scionでは、コミット、マージ、リベース、履歴照会などをサーバー側で処理します。クライアントは容量を抑えたキャッシュと作業ファイルを持ち、必要なデータだけを取りに行く設計です。ローカルでコミットしてからプッシュするのではなく、変更は最初からサーバー上で作られます。
changesetは、変わったファイルを記録する
Scionの作業単位は「changeset」です。親から変わったファイルの一覧と、圧縮した内容を指す情報を記録し、履歴や行単位の由来などは別の派生データとして計算します。すべてを一つの巨大なパックへ固めず、処理ごとに必要な情報へ触れられる形です。
チェックアウトせず、APIへ質問する
差分、共通の祖先、ファイル履歴といった問い合わせはAPIで扱えます。CIジョブが質問のたびにリポジトリ一式を用意する必要を減らし、必要なディレクトリだけを取るスパースな作業コピーや、読んだ時点でファイルを実体化する仮想化にもつなげています。
考え方の核は、データを全部配るのではなく「必要な問いにサーバーが答える」ことです。
エージェントやCIが常時オンラインだからこそ、Gitが大切にしてきたオフラインで完結する性質を、社内用途では手放せました。
キャッシュと分散構成で、何が軽くなったのか

Scionにはクライアントに近いデーモン、地域ごとのキャッシュ、権威サーバーという段階があります。内容で識別される変更不能なオブジェクトを扱うため、各層は同じデータを安全に再利用できます。Anthropicは、各層のキャッシュヒット率が99%を超えると報告しています。
同社の測定では、以前のGitミラー群と比べてScionのCPU・メモリ使用量は200分の1になり、CIや研究ジョブのチェックアウトは分単位から秒単位へ短縮されました。CIだけでもCPU容量を25%節約できたとしています。
これらはAnthropicの特殊な社内負荷で得た自己報告値です。
一般的な開発チームで同じ効果が出る保証はなく、GitHubやGitLabとの公平な製品比較でもありません。数字より、どの処理を測って設計を変えたかを見るべきです。
AIが増やした変更を、誰が止めるのか

Scionの話で見落とせないのが、人の役割です。AnthropicはAIを実装や最適化に広く使う一方、システム全体の制約や移行判断はエンジニアが担い、変更リクエストも人がレビューすると説明しています。AIが既存の仕組みを力任せにたどろうとしたとき、エンジニアが「その方法は使わない」と止めた例も紹介しました。
コードを大量に生成できても、価値のある変更か、安全に統合できるかは別問題です。AIコーディングで必要なツールだけを読む設計と同じく、量が増えるほど「何を見せるか」「どこで止めるか」が重要になります。脆弱性報告の受け取り方を扱ったOSS Scannerの記事にも通じる課題です。
Scionにはディレクトリ単位のアクセス制御や、変更内容に応じて承認条件を変える仕組みも組み込まれました。速くマージするだけではなく、重要な変更へ人の注意を集める設計までが、エージェント時代の開発基盤になります。
普通のチームは、Gitを捨てるべき?
答えは、ほとんどの場合「いいえ」です。Anthropic自身も、Scionは一般用途のGit代替ではないと明記しています。社内専用のコードレビュー、検索、CIと一体であり、公開製品でもオープンソースのリポジトリでもありません。
まず見るべきは、クローンが本当に遅いのか、CIが毎回どこまで取得しているのか、履歴照会のためだけに作業コピーを増やしていないかです。Gitにもpartial cloneやsparse-checkoutがあり、リポジトリを分ける前に試せる選択肢があります。
Scionが示したのは「Gitの終わり」ではなく、AIで速くなった工程の次に、別の待ち時間が見えることです。
生成件数を競うだけでなく、取得・テスト・レビュー・承認まで一本の流れとして測る。そこから先が、AIエージェントを開発現場へ根付かせる仕事になります。